こんにちは! ドイツの劇場でバレエダンサーとして働く、筆者の川端(@ChihoKawabata)です。
芸術家の端くれたるもの、ふと、芸術とはかくあるべきかと考えを巡らせることがあります。
つい最近は「エスプレッソのようだ」と思い至ったので、イタリアはナポリでの思い出話を混ぜて、そんなかんじのお話しをしたく存じます。
エリジールを飲みに行こう
太陽が海面に宝石をばらまく夏のナポリを訪れた際、現地人が「エリジールを飲みに行こう」と私を誘った。隣人がマフィアでもなんらおかしくはない街で、偶然女の一人旅を見かけたその人は、「ピッツァとカッフェを目当てに来た」と胸を張る私に感銘を受けたらしかった。
エリジールとは霊薬。オペラ界隈ではドニゼッティの『愛の妙薬(レリジール・ダモーレ)』で知る人も多いだろう。
他にも万能薬、秘薬と色んな解釈や呼び方がある。エリクサーと聞けば、ゲーム終盤でお世話になった人もいるかと思う。スキンケア商品に『エリクシール』というものがあり、不老不死の薬という意味をそのままネーミングに活かした資生堂には感服する。
ピッツァとコーヒーがはちゃめちゃに美味しいイタリア。その中でもナポリが別格と言われるのは、「水」に恵まれているからである。
それをぜひとも味わってみたく、私はその地に赴いたのだった。
「いやー、立ち振る舞いがね。日本から来た日本人ではないと思ったんだよね」
各自ディナーの支払いを済ませ、私はたまたま隣のテーブルにいたその現地人にのしのし付いていった。ああこういうところね、と心の中で返事をした。
現地人といっても長年ここで修行している日本人のアニキだったので、意思疎通は問題ない。ナポリのヤバいかほりのプンプンする話を沢山聞いた。ガイドブックに載っていないピッツェリアも教えてくれた。ラッキーな出逢いだ。
道路の真ん中(not車道)に突如現れた小さなショップ。中は人がひとり立っているだけのスペースしかない。
アニキは「食後はカッフェでなければ」とカウンターからカッフェを2つ注文した。
カッフェとはエスプレッソのこと。イタリアでは、エスプレッソのことをカッフェと呼ぶ。終始同じ音程を保って「フェ」を気持ち伸ばしながら強調すると、それっぽくなる。カッフェ。
お代はと尋ねると、こんな100円もしないもの、とアニキは一笑した。そこはエスプレッソが70セントの世界線だった。
(カフェでもない店でコーヒーが出てくるんか…)
キオスクかニューススタンドかという風貌だったため目を丸くしながら、アニキからエスプレッソの作法を習う。
まずお水を飲んで、口内の雑味を落としてしまう。お口を清めてエスプレッソを味わう準備をするのだ。御手水かいな。
何よりも、手早くなければ。デミタスカップは事前に温めてあるが、おいしい温度はすぐに過ぎてしまう。
砂糖の袋を切る。全部入れる。かきまぜもほどほどに、取っ手を親指・人差し指・中指の3本でつまみ、飲み干す。
「うっ……うまーーーー!!!!」
こんなん、革命やん! 私の中でナポリ革命が起こった。
苦いのと甘いのが同時に広がる。苦いけど甘いから大丈夫。甘いけど苦いから大丈夫。
味はとても濃い。けど、後味はすっきりしている。
なんじゃこりゃ…うま…うますぎ…。
デミタスに溶け残っているお砂糖を、スプーンですくうもよしとのこと。ほうほう。うまうま。
「ナポリじゃカッフェは命の水なんだよ。だからエリジール」
最後まで堪能している私に、アニキはニカッと笑いかけた。ゴツいシルバーアクセサリーをつけたすっげぇうさんくさい見た目のこの人をよくもまあ信用したもんだ、とそのとき改めて思った。
抽出してみるまで分からない
私の相方「おGさん」も、かなりのイタリアかぶれである。『Pavoni(パヴォーニ)』というイタリアメーカーの本格的なエスプレッソマシンで、毎日カッフェやカップッチーノを嗜んでいる。
ゆくゆく一緒に住めばこれ+専属バリスタが手に入る算段なので、私は買うのを我慢をしている。
工程に慣れてはいても、毎回違うものが出てくる。それがエスプレッソマシンの醍醐味だ。
都度コーヒーミルで豆を挽く。それも電動など言語道断。豆の硬さによって挽く強さも変えねばならぬ。それは自分の手で行う。
これはコーヒーミル界のメルセデスベンツ。『Zassenhaus(ザッセンハウス)』
粉になったものを器具にセットして、タンピングを行う。下の画像のスタンプのような重しで、粉を圧縮する作業だ。圧縮具合でコーヒーの味はかなり左右される。
ゆるすぎるとじゃばじゃばで、きつく圧しすぎても、下から出てこない。
なにもかもが素晴らしくなければものにはならないし、下準備をどれほど入念にしていても、抽出されるまではどんな味になるか分からない。
けれどハンドルをぐっ…と押し下げて、蒸気圧がコーヒーの良さを余すことなく搾り取ったとき。
その瞬間の喜びは、スイッチ1つで完結する機械の比ではない。
まあそれも、人それぞれの好みはあろうが。
芸術作品はアーティストの体液と言って差し支えない
芸術は、捻り出されている。
そうしなくては出てこない。
圧力をかけなくてはならない。
どこに?
アーティスト自身の人生だ。
命をぐっ…と握りつぶすみたいに、搾って、搾って、ようやく出てくる一滴が、芸術だ。
そうして生まれた作品は、だから、アーティストの体液と言って差し支えない。
凄みがあるし、美しい。にも関わらず気持ちが悪いのはそのせいだ。他人の血を飲むようなものだから、あなたの身体はどこかで拒否反応を示しているんだろう。
エリジール。
あるいはナポリでいうところの「命の水」が、いちばんきれいな言い方かな。
酸いも甘いも一緒くたに、他人の人生の搾りかすを超特急で味わう。
次に芸術作品を嗜むとき、そんな残酷なことを思い浮かべてみてほしい。
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