深川秀夫先生を偲んで

ドイツでの暮らし

軽妙洒脱、という言葉がある。快で味があり、しゃれていて、俗気をしているさま。要するに「あか抜けていてスマート」といった意味合いで使われる。

この言葉、先日9月2日お亡くなりになられた深川秀夫先生のお人柄、踊り、そして振付へまさに通じるものがある。お名前を耳にする度に、ご挨拶に伺わねばと思っていた。終ぞ果たせなかった。踊らせていただいた先生の作品『グラズノフ・スイート』の記憶と共に、先生への届かぬ手紙を書こうと思う。

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深川秀夫先生との出逢い

筆者川端が深川先生と出逢ったのは、もう15年も前の2005年のこと。ドイツ・シュトゥットガルトのバレエ学校、ジョンクランコスクールに留学中のときだった。この学校は8年制で、当時筆者は7年生の16歳。先生は57歳だった。(ちなみにどうでもいい情報だけれど同じ誕生日である)

スクール公演で『フカガワ』をやると担任のミットロイターが仰った。彼の振り付けた作品の中でおそらく最も上演数を誇るであろう『グラズノフ・スイート』をスクール公演のレパートリーに加えるということだった。

録画から振り写しを済ませた2月の半ば、深川先生がシュトゥットガルトにお見えになった。ミットロイターとの深い抱擁。彼女と彼は旧東ドイツのベルリンコミッシェオペラでの同僚で、旧知の仲なのだ。

第一印象は「とにかく面白い人」。私たち生徒にとても気さくに接してくれ、笑顔がとてもチャーミングだった。

「振付が何か変だ」と言い出して、でもビデオではこうやって踊っていましたよと言うと「ビデオなんかどうでもいい、俺が振り付けたんだから!」とか。あと初日から「うるさいっ!」ともよく言っていた。まるで同年代のように無邪気に笑いながら。天真爛漫。ああ、こんな言葉もよく似合うひとだった。

つ、つ、と見せてくれる振りは柳のようにしなやかだった。ロシアのように「バレエくさく」なく、アメリカのように「ザ・情熱!」というわけでもなければ、フランスのように「あざとい挑発」でもない。何気ないような、たとえば髪をかきあげるだけの仕草に、己や相手の性別に関係なく思わず見とれてしまうような。そんな微妙な肩の落とし具合だったり、顎の角度だったりが今でも昨日のように思い出せる。

『不変の美』を、的確に捉えていた方なのだと強く感じる。あの頃はまだまだ未熟だったな。己の力量にばかり向き合って、それに全く気付けていなかった。

先生との思い出

深川先生はリハーサル終わりの私たちを捕まえて、よくご飯に連れていってくれた。学校の近くに彼の行きつけの居酒屋があり、そちらのご主人と和気あいあいとしていらした。まだドイツに渡って1年足らずの筆者からすればドイツ語どころかこの地方の方言なんてもっとちんぷんかんぷんで、微笑ましくそれを眺めていた。

彼は日本人ダンサーの中でも先駆けて国際的に活躍したいわゆるレジェンドなのだが、いかんせんバレエ情報に疎い筆者は彼のことを存じ上げなかった。お恥ずかしい限り。また、筆者があの頃はまだ内向的であったことも悔やまれる。もっとたくさんのお話を伺えたはずだった。

クランコと一緒に働いていた彼は、当時のことをいきいきと語ってくれた。「ジョンはレッスンの時からクリエイティブだったんだ」と手を肩に乗せて、すっとタンジュをしてみせた。「普段からこんなふうだったんだよ」と。それは目が覚めるほど美しく、背景に劇場のあのスタジオが見えた。

先生が滞在した短い期間の中でも、そのエピソードは特に脳裏に焼き付いている。これからも深川先生に思いを馳せるとき、思い出すのは決まってそのポーズなのだろうと筆者は確信している。

担任のミットロイター氏の、彼女自身が語らなかったことも聞けた。グラズノフ・スイートという作品についても。また、足を痛めている私にモーラステープを下さったりもした。慈愛に満ちた方だったのだ。

筆者の手記によれば、先生がいらしていた頃の筆者のメンタルはかなりぼろぼろだったように見受けられる。泣いたり笑ったりと忙しそうだ。「悲しくて、でも嬉しかった週」と記してある。彼の優しさや、きらめく語り口は、若さゆえ悩める筆者に多大なる勇気と大いなる指針を与えてくれたに違いない。

グラズノフ・スイートのエピソード

この作品を2年に渡って上演した。学年を跨いでのレパートリーだったため、キャスティングはちょこちょこ変わった。先輩の表現力に感嘆したし(実際、深川先生が滞在最後の日にランスルーをしたときは感極まって少し涙が零れた)、後輩の技術に焦ったりもした。けれどやはり、大勢で作品を作り上げることの大変さと尊さを、この作品を通して学んだ。

面白かったエピソードはある公演で一曲目の途中、突然音が止まってしまったときのこと。その時点は三角形のフォーメーションで、皆同じ動きをしていたのが幸いしたのだと思う。無音で前を見ながらとにかく踊り続け、その場で細かくパドブレをしながら後ろに振り向いた直後、誰かが「ここで止まろう」と言って私たちは音が出るまでパドブレをし続けた。1分足らずで音はちょうど切れたところから鳴り始め、無事音に合わせて再開することができた、というわけだ。

お客さんもきっと固唾をのんで見守っていたのであろう。そこで拍手を頂いた。私たち自身も後から、あれはなかなかの対応だったんじゃない? と冷や汗を拭いつつ笑いあったのだった。

2006年夏には兵庫県に招かれ、ジョンクランコバレエスクールの日本公演も実現した。『グラズノフ・スイート』ももちろんプログラムに組まれている。ソロでヴァリエーションを踊らせていただいたりした。

そう、このソロ。上記から数か月後、忘れもしない、レーバークーゼンかルードヴィクスハーフェンかは忘れたけど(忘れとるがな)ドイツ国内でのゲスト公演でのことだった。

1分ほどの短いソロの中で、筆者はそれはそれは派手にこけた。しかも2回も。笑

フィニッシュ直前に、袖から引率の先生の声援が聞こえてきた。もうひとつヴァリエーションを挟んですぐコーダだったので、呼吸を落ち着けることに必死で痛みを感じる暇すらなかった。最後まで踊り切った。

とりあえず医者に診てもらったら、まあ見事に捻挫していた。最終学年でこれから本格的に就職活動だというのに、絶望しかなかった。

と言いつつもできるだけのことはしておきたかったので、痛み止めの薬を飲みながら、腫れた足首でオーディションに臨んでいた。結果お仕事が頂けて、今に至るというわけだ。

先生へのメッセージ

深川先生。先生の作った難しいヴァリエーションのせいで私、とんでもない目に合いましたよ。

そう報告して「うるさいっ。オレが知るか、んなこと!」と笑ってほしかった。会いに行けばよかったと、今とても後悔しています。

この作品のおかげでメンタルが励まされ、鍛えられ、お蔭様で私は今も元気にダンサーを生業にしています。昔とは違う私の晴れ晴れとした表情を見て頂きたかったです。

私の踊りの中に、少しでも先生の片鱗が残っていますよう。そしてこれからも世界のどこかで、先生のエスプリに富んだ作品が上演されていきますように。

ドイツより心からご冥福をお祈りいたします。

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